教えのやさしい解説

大白法 689号
 
一生成仏(いっしょうじょうぶつ)
「一生成仏」とは、私たち凡夫(ぼんぷ)が凡身(ぼんしん)を改めることなく、一生のうちに成仏の境界に至ることをいいます。即身成仏・速疾頓成(そくしつとんじょう)と同義の言葉で、『一生成仏秒』等に説かれています。 成仏は仏法究竟(きゅうきょく)の功徳であり、それは法華経のみならず爾前権経(にぜんごんきょう)でも説かれています。
 しかし、実際は大聖人が、
 「法華已前の歴劫(りゃっこう)修行等の諸経をば『終不得成(しゅうふとくじょう)、無上菩提』(むじょうぼだい)と申し」 (御書 六七二n)
と『如説修行抄』に説かれているように、法華経以前の諸経で説く歴劫修行に無上菩提(成仏)はないのです。
 すなわち、法華経以前の爾前権経においては、永遠とも思える永い間、生死を繰り返しながら厳しい修行を積んで初めて悟りを得る歴劫修行が説かれ、念仏によってこの世を捨てて死後の極楽往生を期するという、迂回(遠回り・回り道の意)の洗仏が説かれていました。
 しかし、これによれば、仏と凡夫はかけ離れていて、一向に凡夫は仏と成ることができず、また穢土(えど)と浄土は別物であって、私たちが住むこの娑婆は、一向に苦悩の尽きない絶望的世の中であるということになります。
 ところが法華経は、大聖人が『一生成仏抄』に、
 「衆生の心けがるれば土(ど)もけがれ、 心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔(へだ)てなし。只我等が心の善悪によると見え たり」(同 四六n)
と仰せのように、凡夫の心の善悪によって、この娑婆世界が浄土とも穢土ともなるという、衆生本有(ほんぬ)の理と功徳が説かれています。つまり生命の本質である九界即仏界、仏界即九界、十界互具の義が説かれて、はじめて一切衆生の成仏が可能となったのです。
 故に大聖人は、
 「法華経の行者は如説修行せば、必ず一生の中に一人も残らず成仏すべし(中略)法華の行者も上中下根あれども、必ず一生の中に証得す」(同 一一〇n)
と、法華経を行ずる者は、上中下根の違いこそあれ、必ず一生のうちに成仏することを仰せです。

 難信難解(なんしんなんげ)な「一心法界の旨」
 では、自身が仏と成り、娑婆即寂光の妙埋を観ずるにはどうすればよいのでしょうか。
 これについて『一生成仏抄』には、
 「衆生本有の妙理を観ずべし」(同 四五n)
と説かれています。これは衆生に本来具(そな)わっている妙理=妙法蓮華経を観ずることが悟りとなるということです。
 その「観ずる」とは、同妙に、
 「唯所詮(しょせん)一心法界の旨を説き顕はすを妙法と名づく、故に此の経を諸仏の智慧とは云ふなり。一心法界の旨とは十界三千の依正・色心・非情草木・虚空刹土(こくうせつど)いづれも除かず、ちりも残らず、一念の心に収めて、此の一念の心法界に遍満(へんまん)するを指して万法とは云ふなり。此の理を覚知するを一心法界とも云ふなるべし」(同)
とあるように、宇宙法界・森羅万象(しんらばんしょう)の一切法が衆生の一念に具わり、それを覚知解了(かくちげりょう)することをいいます。
 しかし、末法の荒凡夫たる私たちが、無明(むみょう)の迷心によって自己の一念心を観ずることは到底できるものではありません。そこで時機相応(じきそうおう)の行法として御本仏大聖人は、「南無妙法蓮華経」と唱えることによって「一心法界の旨」体得できると示されたのです。
 そして、この一心法界たる妙法とは、我々の心そのものであると同時に、
 「妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯一部の意ならくのみ」 (同一一一四n)
とあるように、仏の悟りの当体であり、これを唱える時、
 「名(な)は必ず体(たい)にいたる徳あり」(同 四六六n)
と言われるように、どのような機根の衆生であっても、自ずと仏の悟りに至るのです。
 したがって『一生成仏抄』に、
 「若(も)し己心の外に法ありと思はゞ全く妙法にあらず」(同 四六n)
とあるように、もし己心から離れたところに妙法があると思って題目をロ唱しても、それは真実の観心ではなく、一生成仏も叶わないのです。

 「己心」の主体とは
 さて、大聖人一期(いちご)の御化導(ごけどう)は、
 「さどの国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ」 (同 一二〇四n)
と『三沢抄』にあるように、佐渡以前と以後により教えの深さが違います。この『一生成仏抄』も宗旨(しゅうし)建立の二年後という御化導初期の御書であり、未(いま)だ大聖人の御本意が述べられたものではありません。
 故に先の『一生成仏抄』の「己心」の語は、権実相対(ごんじつそうたい)の上から一往、諸法実相に約して妙法の意義を、私たちの「己心」に具わる「衆生本有の妙理」として示されたものなのです。
 再往(さいおう)、この「己心」の主体を大聖人の下種仏法の御聖意(ごしょうい)より拝するならば、
 「日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(同 六八五n)
と示されるように、実に御本仏大聖人の「己心」であり、就中(なかんずく)、大聖人出世の本懐である本門戒壇の大御本尊にこそましますのです。

 正しい信心により一生成仏を
 この御本仏の御魂魄(ごこんぱく)は、唯授一人の血脈によって御相伝されています。したがって、この唯授一人の血脈に信順し奉り、大御本尊に対し「南無妙法蓮華経」と唱え奉るならば、能所不二(のうしょふに)、すなわち所化(しょけ)たる我が己心は能化の御本仏の己心に冥合(みょうごう)し、そこに即身成仏の功徳が顕現するのです。
 その一生成仏の功徳は、各々の「信心の厚薄」によりますが、常に自ら妙法を唱え、常に他の人々を折伏していくところの地道な積み重ねのうちに、必ず顕れるのです。